2022年心理カウンセラー認定試験 受講者の発表です。
三重県鈴鹿市の中村智恵美です。
今日は「母の理想に縛られ苦しんできた人生から、自立した私」についてお話します。
皆さんは幸せですか?
私は今とても幸せです。
でもずっと幸せだった訳ではありません。
45歳まで、幸せが何かわからないどころか「死にたい」「私を不幸にした人は死ねばいい」と何度思ったことでしょう。そして、自分は何のために生まれてきたのか、生きている価値があるのかと自問自答の毎日でした。
私の不幸の一番の原因は母でした。母は強い人で、常に押さえつけられていました。
そんな母が大嫌いでした。結婚して母から離れたつもりでも、いつまでも心が満たされずにいました。
そして私は45歳まで幸せだと思ったことがありませんでした。
主人は結婚当初から、変わらず私を大事にしてくれます。
そしていつも私や家族のために働いてくれます。
そのことがわかっていても、私は幸せだと思ったことがありませんでした。
こんな私を大きく変えてくれたのが心理学でした。私の気持ちがどう変わっていったかお話します。
*自己紹介
まず初めに私のお話しをさせていただきますね。
仕事は今リンパドレナージュとリンパセルフケア講座をしています。健康に携わる仕事が自分には合っていると思います。
田舎ですが、一戸建ての家に住み、食べたいものを食べ、何不自由なく暮らしています。
何より主人は真面目で働き者、しっかりしていて優しい人です。
初めてのデートの時、「アルプスの少女ハイジ」がお互い好きと言うことで盛り上がり、結婚20年目に念願のスイスに行ったんですよ。高山列車にのり、スイスの山々を見て、ワインを飲んだりフランクフルトやチーズを食べたり最高でした。
また、プロ野球のドラゴンズも好きで、最近弱いですが、野球観戦にも出かけます。子どものいる大阪に行っては、飲みに行ったり、一緒にいて楽しい人です。
価値観もよく似ているので、気を使うこともなく、何より私がやりたいことを自由にさせてくれる理想の旦那様です。今本当に幸せです。
主人の気持ちを象徴する手紙をもらったことがあります。
40歳の時に主人が会社のイベントで「10年後の自分に」と言う手紙を書いたそうです。タイムカプセルです。
50歳の時に見せてくれました。その手紙には
「智恵美へ 10年後僕がいなかったらごめんね。」とありました。
実は主人がその手紙を書いたころ、うつ病で病んでいました。会社で管理職になったことが原因だと思っていましたが、実は私が主人のことをわかってあげることができなかったからです。
結婚して主人が愛してくれても埋まらない心があり、ひがみっぽく、すぐ感情的になっていました。
感情が抑えきれない時は、買い物袋を何重にも重ね、そこにいらない食器を入れて、庭の塀に当てて割っていました。何をやっても上手くいかず、まるでマイナスを磁石で引き寄せているような毎日でした。
私がこのように自分を不幸だと感じる原因は母でした。
母は最近よく耳にするいわゆる「毒親」です。いつも母は私を自分の思い通りにしようと一生懸命でした。そんな母が大嫌いでした。
母について
ここで母のことについて触れていきます。
母は愛知県尾西市の大きな紡績工場の9人兄弟の末っ子、
母の兄弟は紡績工場の社長を始め、それぞれ呉服屋、洋服屋、染め物屋など、繊維にまつわる仕事で成功していました。いわゆるお金持ちです。
母はとても強くて賢い人です。そして母は大変器用な人で、洋裁和裁、編み物、刺しゅう、書道などが得意で、とても上手でした。
母は大阪の商人のような感じで、よその人には愛想よく誰とでも上手に付き合っていました。
でも家に入ると、いつも怒ってばかりいました。
常に「外で誰かに会ったら挨拶をしなさい」「笑顔でいなさい」「良い子でいなさい」と言われていました。
「はしの持ち方は」「紐の結び方は」「雑巾の絞り方は」と何度も教えられました。
私がTVを見ていても怒られ、それでも見ていると叩かれました。
怖くて押し入れの中や、屋根の上に隠れていたことを覚えています。
怒られてばかりの私は、まともに母の顔を見ることができませんでした。
また、自分の得意な洋裁など教えてくれるのですが「なんで真っすぐ縫えないの!」「何度やったら出来るの」とこちらも怒られてばかりでした。
母に少しでも認められたいと一生懸命やっても上手にできるはずもなく、どんどん自信を無くしていきました。
母のお陰でどんどん自信を失っていた私は小・中学校といじめを受けていましたが、母にいじめられている「みじめな私」を見せることができず、母がいる家にいることの方が辛かったので不登校にもなれず、死ぬことを空想する毎日でした。
母からのいやがらせ
死ぬ勇気もなく時間だけが過ぎ、大人になりました。
大人になっても、母からの嫌がらせは続きます。
そしてとんでもない仕打ちが待っていたのです。
社会人になって自分で稼げるようになると、私も自分の好きなことができるようになり、心が開放的な気持ちになりました。
皆さんも友達とかと旅行へ行きませんでしたか?
厳しい母でしたが、父の意向もあり、お盆やお正月は家族で旅行に行っていたので、私が友達と旅行に行くのもいいと思っていました。
でもなぜか旅行に行くと話すと母の機嫌が悪くなるんです。
それでも友達と約束もしたし、予約も取ったし出かけました。
旅行先では、母のことも忘れ、今まで見たことのない世界を見て触れて、美味しいものを食べ、他愛もないお喋りで満足して、お土産も買って「また行きたいね~」なんて言って、友達と別れて家に帰るんです。
皆さんも旅行から家に帰ると「旅行楽しいけど、やっぱり家が一番落ち着くわ~」って思ったことないですか?
私もそんな気持ちだったので、その情景をイメージして「ただいま~」って玄関を開けたんです。
最初に目に留まったのは、達筆な母が大きく書いた「死ね」の文字でした。
しばらく何が起きているのかわからず、「死ね」の文字の意味も理解できず時間が止まったようでした。
我に返って「死ね」の意味を理解したものの私が言った「ただいま~」の返事もなく、シ~ンとした冷たい空気に押しつぶされそうでした。
嫌な予感がしました。恐怖がよみがえりました。
もう大人になったので叩かれることも怒られることもありませんでしたが、それから母の無視が始まりました。
子どもの頃いじめられていて、一番辛かったのが無視されることだったので、まさに「針のむしろ生活」です。父がいましたが助けてくれることはありませんでした。
父も母の怖さを味わっていたようです。最近父と母の話をしたとき「ばあちゃんはすぐ怒るから何も言えん」と言っていました。
朝起きて「おはよう」「行ってきます」「ただいま」と言っても返事はありません。
用事の時は父を通していました。
食事などどうしていたか記憶にありませんが、狭い家だったので、会話のない家の中で身体が固まっていた気がします。
3ヶ月ほどすると普通に戻ります。
私も凝りて母の思い通りの良い子でいればいいのですが、私は良い子をしているのに息苦しくなり、息苦しくなるとまた旅行に行きました。
そして帰ってくるたびに、母の達筆な嫌がらせの文字と無視が続きました。
心理カウンセラーとの出会い
このような日々が続き、私は一日も早く母と離れたいと婚活を始めました。
こんな私でも、「結婚を前提に付き合ってください」とか「好きです」と言われることがありました。
結婚したいはずなのに、そう言われると「この人変」「何か企んでいる?」と信用できませんでした。
でも変なのは私ですよね~。
これではいけないと思っていた時、目に留まったのは新聞広告の「カウンセリング」の文字でした。
そこで生まれて初めて私は心理カウンセラーという人に出逢いました。
そこで自分で導き出した答えは「自分が自分のことを好きではないのに、人から好かれるわけがない」でした。
それから自分を好きになろうと決めました。お陰で今の主人と出会い、結婚しました。
結婚したら幸せになれると思っていましたが、優しい主人には姑付き、姑の愚痴を言っても主人は聞く耳持たず。
実家の母に愚痴れるはずもなく、やっぱり私は幸せになる価値なんてないんだとあきらめました。
心理カウンセラーに出逢って、自分を好きになれたものの、何となくで生きてきたのですが、私が45歳の時、転機が訪れました。
それは、「残りの半分をこんな気持ちで過ごしたくない。もうこんな自分は嫌だ~」って爆発しちゃったんです。
そこで50歳までに自分を変えると決意して、こんなことやってみました。
もしかして、私もやったことがある~、と共感してもらえる方もいらっしゃるかと思います。
私がしたことはこんな事です。
・自己啓発の本を読んだり、セミナーに行く
・ヒプノセラピーやタッピング療法
・スピリチュアルな世界にはまって、エネルギー療法、マヤ暦やカード占いを学ぶ
・ネットワークビジネスも頑張りました!
「自分が変わる」「運が良くなる」「幸せになる」「自分を好きになる」「浄化」「自然治癒力を高める」などのキーワードに飛びついて無我夢中でやりました。無我夢中だったから、めっちゃ行動的にやりました。
それまで努力しないで生きてきたので、とても刺激的でした。
主人には言えないほどお金も使い、だまされたり後悔することもありました。
一般的にはそんなにお金を使って失敗だ、と思われがちですが、チャレンジしていくつかの資格も取れたので、これだけしたからこそ、目標の50歳には、心が晴れ晴れとして自分が変われた実感がありました。
自分もやればできると自信もつきましたので、私にとっては必要なお金でした
変われた自分を試したと思っていたころ、偶然にも「電話カウンセラーしませんか?」と電話がありました。資格もいらないと言われたことで「チャンス」だと思いました。
カウンセラーに憧れていたし、やらせてもらうことにしました。
でも実際にやってみて、もっとうまくカウンセリングをされている方を知って、もっと自分に知識があったらと何度も思いました。
そこで私でもカウンセラーの免許を取ることができるか、いろいろ検索しました。
三重県でもカウンセラー養成講座をいくつか見つけましたが、「基礎から学ぶ」とか「理論的項目がずら~」と並んだカリキュラムを見ると「無理無理、私には出来ない」と心が折れました。
そこで愛知県にある心理学の講座と出会いました。
愛知県の先生の話はカウンセラーと言うより心理学のお話でしたが、とても面白く引き込まれて行きました。
そしていつしかトゲトゲしていた自分自身のとげが丸くなっているのに気づきました。
私はそこで奈美先生と出会う事になります。
あんなに嫌いだった母との同居を決断できた
ここで、心がととのっていなかった時の自分の話に戻りますが、結婚してからも実家に行くと「来るのが遅い」「子どもがうるさいのになんで怒らんの」「あんたの旦那はゴロゴロして邪魔」とか文句ばかり言われ、一つと言うと10倍返しでば~と言われるので、私は母に何も言えず、いつもオドオドしていました。
心理学を習うまでの私は、両親に対して不信感しかなく、ずっと距離を取っていました。
だからその頃の私は、両親に何かあっても、私は知らんし、勝手に死ねばいいわ!と思っていたのです。
まさに毒娘です。
それが、心理学を習い始めて1年程した頃、父が免許証を返納したと聞きました。
私を試されていると感じました。それを機に2週間に1度、両親の通院や買い物をサポートするため三重県から愛知県東海市に2年通いました。
いつも愚痴と怒りばかりぶつけられていた母の所に行こうと思ったのは、まぎれもなく心理学で私が変わったからでした。
それまで「母に何か言われるんじゃないか」と常にびくびくしていた私が、母の言葉に動じなくなっていました。
それどころか母の愚痴に対して、自然にカウンセリングをしていたのです。
今までは母の話=怒っている、だから聞かないようにしていました。
でも今は母の話を最後まで聞いて、その気持ちを理解して受け入れ、どうしたいのか、どうすればいいのか一緒に考えてあげられるようになりました。
怒りっぽかった母は、少しずつ穏やかになっていきました。
そして去年の今頃、転倒して肋骨を骨折したのを機に、同居を決意しました。
あんなに嫌いで、勝手に死んでしまえばいいとさえ思っていた、私の毒娘の心もほぐれていました。
心理学は心のエッセンスのように、私の心を満たしてくれたのです。
母の本当の気持ち
奈美先生の講座で心理学を学びながらの同居生活で、母がどうして私を思い通りにしようとしたか自分で考えたり、カウンセリングをしてもらいながら考えてみました。
そして母が私を思い通りにしたい理由は2つ考えられました。
1つは、兄弟に対してのプレッシャー
もう1つは娘である私の幸せのためだった
ということがわかりました
1つめの兄弟に対してのプレッシャーというのは、さきほどもお話ししたように、母は親、兄弟、従妹もみんな大金持ちでした。
もちろん私の従妹も私よりずっと年上ですが、女性の憧れる玉の輿でこちらもお金持ち。
親戚が集まると自慢話の始まりです。
母も、自分の子どもを姉たちに自慢できる子どもに育てなければ、とプレッシャーがあったのでしょう。
姉たちに「すごい」と褒められたくて私に過度な躾をおしつけたんだと思います。でも、子どもの私には迷惑な話です。
そしてもう1つの理由、私の幸せのためということですが、母は常に周りからどう見られるかに重きを置いていました。
それは、見合い相手が決まると、仲人という立場の人がいて、その人を通して相手の近所の人に「○○さんどんな人ですか?」と聞いて調べていたらしいのです。浮気調査みたいですよね。
近所の人に良く見られるよう自分も振る舞っていました。
だから私が大人になって、見合いをした時も「店舗をたくさん持っている寿司屋の2代目だから」とか「新居が建っていて、あとはお嫁さんが来てくれるのを待っている」、そんな人に飛びつき、早く決めろと言われました。
従妹たちのような玉の輿を望んでいたのでしょう。
それが私の幸せだと、母はそう思ったんだと思います。
先ほどの旅行の話も母にとったら、遊び歩く娘は悪い子で、世間体が悪かったんだと思います。
母は私に幸せになってほしいと思ってくれていたし、母は私を愛してくれていました。
心理学を学んだ今なら、それがわかります。
母の本当の気持ちを理解しながら、同居という実際に母をじっくりと観察するなかで、心の底から母を許せるようになりました。
達筆な文字で「死ね」と書いていた母は、たくさんの姉や兄に可愛がられている幼い妹のままだったのかもしれません。
しっかりしているように見えてどこか大人になり切れなくて、実は甘えん坊だった。
母が私に甘えるたびに、あぁ、私は小さいころから母の母役や兄役をやらされていたんだ、と気づきました。
そして、その大人になり切れない母が「娘のために良かれと思ってやっている」ことが、どれだけ私を傷つけたかということがわかり、私も子を持つ親として、子どもに良かれと思ってやっていることが本当にわが子のためなのか考えなくてはいけないな…と大切なことを教わりました。
こんな話をしていると、奈美先生から「きっとお母さんは、智恵美さんが心からお母さんを許せるように、お母さんを愛せるように、そして自分の子育てがもっと良くなるようにと、最後の子育てに来たんだね」と言われました。
事実、それがわかってからは、あっという間にあんなに嫌がっていた施設に行く話がトントン拍子に決まり、今は施設で楽しそうに暮らしています。
最後に(私の夢)
私は母の理想に縛られ長い間苦しんできました。
母は私を幸せにしようとやっていたことが、実際には私を縛っていました。
自分の当たり前が、正しいと思っていることが、実は自分や子どもを不幸にしているかもしれません。
私には娘と息子がいます。
娘は完治していますが、うつ病でした。息子は発達障害です。そして夫も鬱病でした。
でも心理学を習ってからは、どんなことが起きても「何とかなる」と思えるようになったので、子どもたちに余計なお世話をしなくなり、チャレンジしようとしている時、失敗を恐れず応援できます。
カウンセラーをやっている私の存在が子どもにとっても安心につながっているようで、最近では子どもからもよく相談されるようになりました。
私がもっと早くにカウンセラーになっていたら「智恵美へ 10年後僕がいなかったらごめんね。」という手紙は書かなかったかもしれません。
家族に一人、カウンセラーがいたら感情的にならずに解決できるのに、と思います。
心理学の面白さと素晴らしさがわかった私は、心理学をたくさんの人に伝えたいと思いました。
奈美先生の心理学講座は、まずお母さんが笑顔になり、そしてどう家族と向き合えばいいか、わかりやすく教えてくれます
私はこの講座をたくさんの人に受講して欲しいと思います。
岐阜県だけでなく、三重県の人にも伝えていき、たくさんのお母さんたちを笑顔に。
そして世の中の子どもたちが幸せになってくれたらと思います。