2022年心理カウンセラー認定試験 受講者の発表です。
わたしは毒親というテーマで「絶縁状態だった娘たちとの関係をどのように回復していったか」を発表させていただきたいと思います。
最初に概要を説明します
1.毒親とは
2.毒親の私が招いた事件
3.毒親と気づけた経緯
4.毒親の連鎖
5.心理学の力・娘たちとの今
1.毒親とは
まず最初に毒親についてお話しさせていただきます。
毒親については諸説ありますが、私はこのように考えています。
1.否定する:ダメと言ったらだめ
2.決定権を与えない:ほしいものもやりたい事も親がなんでも決める
3.価値観を押し付ける:「これにしなさい」などと親の古い価値観を押し付ける。相手が悪いと言って自分の非を認めない。思い通りにならないと機嫌が悪くなる。
4.振り回し依存させる:なんでも親に問い合わせさせる。聞くふりだけで自分の思い通りにさせる
5.問題や子供にちゃんと向き合わない
などが、毒親を定義するのでは?と考えています。
2.毒親の私が招いた事件
毒親と気づかされた事件についてですが、私は自分の子育てにはなんとなく自信がありました。
それはなぜかと言うと、叔母の子供を赤ちゃんの頃から世話をした経験があったからでした。実際は簡単ではない事に気づいていましたが、私は良い母親だと思い込むようにし、自分の親に「それ見たことか」と言われたくない一心で、忙しくても朝ごはんや弁当を作り、晩御飯も手抜きせず、掃除洗濯子供の世話、学校行事などもできる範囲で参加してきた。と思い込んでいました。
そのため、約4年前に嫁いだ次女との関係は小さな意見の食い違いはあったものの、良好だと思っていました。
ところが、このコロナの第一回目の自粛開けのことでした。久々の訪問の後、私は膝から崩れ落ちるような言葉を娘から浴びせられたのです。
その日、久々の訪問に浮足立っていた私は、すでに一歳三か月ほどに成長して、嫌々期に入っている孫の育児に疲れ果てている娘を思いやらず、ミルク飲み人形片手に〝ばあば”といって嬉しがってくれるに違いないと勝手に思い込んで、そして娘も久々に買い物に連れ出して服など買って上げれば喜んでくれるはず、と勝手に思い込んで勝手に期待してさんざん連れまわしたのです。その上疲れて駄々をこねる孫に苛立ち、買ってあげた靴を履かないことに腹を立てて「いらないならほかっちゃうよ!(捨てちゃうよ)」と言ってその靴を捨ててみせたのです。
当然大泣きする孫は、娘に抱き着いて離れようとしませんでした。買い物どころではなくなり、帰路につきました。しかし、家についても娘から離れようとしない孫。困り顔の娘。気まずい空気の中どうすることもできず。「なんかごめんなさい。帰るわ」と言って帰りました。しかし、気まずさが気になり電話しましたが、明らかに娘は怒っているので、理由を問うと、堰を切ったように、
「あのね、あなたはこっちに来るときいつも朝早くから夜遅くまでいて、こっちはやりたいと思っている家事やなんかも出来ずに、夫も最近では夜も遅くてほぼワンオペなの!あんた、ただこっちに来て買い物がしたいだけでしょ!迷惑なの!私は大人で、親でね、いままで自分の進学も何でもかんでも勝手に決めたあんたの言う通りにしてきたし、いい加減にしてよ!里帰り出産もあんたのためにしたのに!もういい加減私の自由にするから!」
と一気にまくしたて、その後「もう来ないで」と言って電話は切れました。
その間私はひとことも言えず頭の中は真っ白。仕事も手につかず何とか持ちこたえましたが、混乱は否めませんでした。
その後、長女に連絡しました。考えてみれば、簡単にわかる事でしたが、姉妹で私に対する悩みをお互いに話し合っていたのでしょう。すでに、事情が伝わっていることは容易に想像できました。そこで、私は「こんな親でごめん。でも、私も良かれと思って…」とか「私もさ…私みたいな親でごめん」「私なんて生まれなきゃよかった」とか今思えば恥ずかしい言葉をつらつらと言い、言い訳ばかりしていました。
長女は私の言葉が途切れるのを待って、
「おかあっていつもいつもこういうことがある度、同じこと言うよね?そうやって同情を引くようなこと言ってさ、『そんなことないよ。大丈夫』とでも言ってもらえるといつまでも思ってるの?あいつも相当な覚悟で言ったと思うよ。当分はだめだね。一年か十年かかかるかもね」
と言って一方的に電話は切れました。
私は奈落のそこへ落ちました。
なんで?私はおやじ(私の元夫の事です)なんかと違ってちゃんとやってきたのに!
3.毒親と気づけた経緯
さて、ここからは自分が毒親だと気づいた経緯になりますが、茫然自失の中、必死になって以前奈美先生と学んだ心理学の資料や本を読み返したり、調べたり、混乱しながらも「毒親」という言葉に行きつきました。
毒親、それは最近巷でささやかれるようになった言葉でした。否定し、支配し、価値観を押し付け、依存させ依存し振り回す。娘たちが私に放った言葉がたどりつかせたのです。
何てこと…。
どの言葉にもその場面が浮かんできました。娘たちがまだ小さかった頃、子育てってどうすればいいのかもわからないのに、いとこたちの面倒をみていたのをそんなもんだと思い込んで、変な自信と相談する人もない中、滅茶苦茶な知識や思い上がり…。
娘達の苦笑いした顔…。
「私には味方がいないからあなたたちを生んだ」と言ったこと。
「そんな育てられ方してない」と返されたこと。
高校の進路や大学も私が勝手に決めました。それも身勝手な私の一存。
当然行きたい大学へ行けると思っていた長女は、本当に落胆していました。
次女は私立高校でかわいい制服を着て、電車通学でエスカレーター式に大学進学したかった、とのちに話してくれました。
なんてことをしてしまったのか!まるで所有物のような扱いで子どもの思いや希望を握りつぶし、無視して、良い親だと思っていたのですから救いようがないです。
そうして、私は奈美先生に藁をもつかむ思いで泣きながら連絡しました。奈美先生は最後まで私の話しを切らずに聞いてくださり、アドバスを希望した私に「康子ちゃん、よく気づけたね。気づけて良かったね。気づかずにいる人もいるからね。必ず仲直りできるでね。長くなるかもしれんけど、子供ってね、お母さんが大好きなんだわ。だから大丈夫だよ。もしもの時は私が間に入ってあげるでね…」
もっといっぱい言ってくださったと思いますが、その時の私には「お母さんが大好きなんだわ」が最大に心の支えになりました。
そして、私の心がととのうまで、
・しばらくは連絡をとらないこと
・連絡するなら生存確認のための時候の挨拶程度にとどめておくこと
とアドバイスしてもらい、その間に私は再び奈美先生のもとで以前より一歩深く心理学を学びはじめました。
そして一か月がたった頃早く娘たちと仲直りしたくてたまらなかった私は、そのころ時々もらっていた野菜を長女におすそ分けしていたのですが、どうしても自分の気持ちを伝えたくなって、その袋の中にメモ書きで「私毒親だった。死ぬ前に気づけて良かったわ」と書いておいておきました。
すると、思いもよらずに「なんか遺書が入っとったよ(笑)」とLINEが来ました。
喜びのあまり「本当」と返信して、よせばいいのに、あれだけ奈美先生に釘をさされていたのに「わたしもね…」とまた言い訳がましいこと言ってしまいました。
そのため長女には「おかんは全然分かってないじゃん!」と言われてしまい、奈美先生に「そりゃあお姉ちゃんがっかりしたわ」と𠮟られました。
それでも飽き足らず今度こそ仲直りしたくて、次女のところには孫の誕生日に手作りのお手玉を送りました(この時の反応は忘れてしまいました)。それを美奈先生に話すと「手作りは重いから、送るなら消えものがいいよ」とアドバイスをもらったので、奮発してすき焼き用のいい肉を送ったり、そうこうするうちに気が付けば一年が経とうとしていました。
4.毒親の連鎖
さてここからは、私の幼少期と私の親についてお話させていただきたいと思います。その理由はなぜ毒親は生れるのだろう?という考えにおよんだときのことでした。私だってなりたくてなったわけではないと思ったからでした。
私の親は昭和5年が父、昭和7年が母の生まれた年で戦前生まれでした。
父の方はいわゆる良いところの出で、父の兄には乳母がついているような家でした。
父も随分と甘やかされてわがままに育ったようで、いたずらも数知れずやっていたようです。
母親は、軍需工場へ勤労奉仕に行き、終わると別の軍需工場に行っている母親に会うため、一目散に走って駅に向かい、「今日も生きて会えた」そう言って手をつないで家に帰るのだと言っていました。
同じ時代を生きてきたのに、全く違った生き方ですね。
そんな父と母が出会い結婚しましたが、大人になっても父のわがままっぷりは変わらず、ずっと私の母にいじわるをしたり、浮気をしたりしていました。
私はこの家に長女として生まれましたが、母は父に作為的な復讐をしたくて、それを私にさせるような、歪んだ感情を持っていました。
例えば母は、父がそのころ浮気をしていた相手にそっくりな芸能人の名前を父の前で私に言わせました。「お父さん、〇〇さんって知っとる?」と私が言うと、父は苦虫を嚙み潰したような顔をしていました。
私がそれを知るにはまだ幼すぎてよくわからずに話していました。無邪気ですよね。
私は母に言われた通りに言っただけなのに、父親に嫌な顔をされる。父も母も大好きでかけがえのない存在だと思っている幼いころの私が、このような状況をどのように考えてよいかわからずにいました。
また、父親が嬉しそうに自分のしたいたずらを武勇伝のように話してくれたこともありました。父はよく「小学校の時教室に立てこもり、部屋に入ろうとする同級生に扉をぶつけるいたずらをして、お母さんが呼び出されていた」とか「貨物列車から古タイヤを落として、また母親が駅長さんに頭を下げていた」とか嬉しそうに言うのです。
学生時代は、近所の畑に白菜を盗みに行って見つかって肥溜めに落ちたとか、近所の幼稚園でピアノを弾いたとかまともな話もありましたが、どれも楽しそうに話すのです。
そんな父の話を聞きながらわたしは小学生の時、探検と称して山歩きをして夜遅くになって捜索願一歩手前となったり、竹林に入って筍を取ろうとしたり、学校から帰らず探されたり、基地を作って友達にけがをさせたり、噓をついたりと、今考えてみれば父親と規模は違いますが、私は同じようなことをしていたのです、そのたびごとに親には𠮟られていましたが、心の中では「お父さんだって…」と思っていたと思います。
お父さんにもお母さんにも、すぐに天狗になる子と思われ、弟には一人前の物が与えられるのにやっこなんかこれでいいわ、とあからさまな弟びいき。おばさんが勝手に階段から落ちていったのに、私に落とされたと言われ、違うと主張すると嘘つきと言われ、祖母にこたつでつねられた時も母に言いつけると、そんな嘘ついて、と自分が悪者にされ、嘘つきのレッテルを貼られました。
父は私に散々叩いたり、批判したり、否定したりしたのに、私が社会に出ようとすると、自分の周りに人がいなくなるのが怖かったのでしょう、私を否定しながら手元に置きたがりました。
もう話し出したらキリがないくらい、辛かったり憤りを感じたりするエピソードがあります。
両親という一番大切な人、そして自分を愛してくれるはずの人から愛情を得たいがために、歪んだ愛情を受け取ってしまいました。
・良かれと思ってやった事が裏目に出る
・他の人はいいのに、自分がやるとダメと言われる
・いつも理不尽な目に合う
私はいつしか自分の感情の置き場も理解の仕方もわからずに生きるようになりました。
そして
・マイルールを作らないと自分自身の生き方を見失う
・わからないから誰かの真似をする
・近所の人が大きな声で怒鳴れば、怒鳴ってみる
・親は否定するもの
・親の思い通りになるように育てればいいと思い込んできた
・私の趣味で子どもを育てればいいと思ってた
このようにして私という毒親が誕生してしまいました。
こうして原稿を書き進めていくと、ふと、こうやって毒親って伝染していくのかなと思いました。毒親に育てられた子は毒親になる。ただ、気づけばその連鎖を断ち切れるともわかりました。
5.心理学の力・娘たちとの今
そしてついに、娘たちとのグループLINEも完全復活出来る日がやってきました。
次女からの、あのつらい電話から1年半が経とうとしていました。その間、心理学を学び続けて、娘たちと向き合う準備をしてきました。そして昨年の6月、思いがけず長女から「ちょっと子守りを手伝いに来て」と連絡が入りました。
嬉しかった。本当に嬉しかった、と同時に「きっと仕方なく言ってるんやろな」とか「また私は何かやらかさんかなー」とか、色々と頭を巡らせる中、長女に会いに行きました。
やっぱり私たちは親子でした。1年半のブランクを何事もなかったように普通の親子に戻ることが出来ました。いつも通り。ただ違ったのは孫は随分と大きくなっていました。
その話を聞きつけたのでしょう。1週間後、今度は次女から電話がかかってきました。
「急で悪いんだけどさ、来週来てほしい」
こうしてあっけなく仲直りが出来ました。
奈美先生が言っていた「必ず仲直りできるでね。長くなるかもしれんけど、子供ってね、お母さんが大好きなんだわ。だから大丈夫だよ」
この言葉は本当でした。
私は今、心理学で学んだことを活かして、娘や孫の話をとことん聞くこと、自分の考えや価値観を押し付けないこと、否定せず、尊重すること。そして自由にさせて、相談には乗ること。喜んでいるときにはよかったと言って一緒に喜ぶ。こんな事を工夫しています。
そして「子供見とってあげるで、やりたい事やっといで」と言えるようになりました。最近娘はオイルマッサージに月1で行くようになりました。
心理学を学んだことでわかったこと。それは、自分が変わればよかったのです。
私は今、二人の娘の家へ頻繁に行けるようになりました。
私の毒親としての懺悔は終わったのでしょうか?
その答えはまだわかりませんが、この何気ない日常が私にとってどれほど幸せな時間か、その大切な時間をしみじみと味わっています。
奈美先生のメソッドは、ここに導いてくださいました。
心から感謝し、発表を終わります。