心理カウンセラー認定試験 受講者の発表4

2022年心理カウンセラー認定試験 受講者の発表です。

みなさんこんにちわ。

私の名前は、熊崎博巳、と言います。

今日は、私がととのえ心理学と出会って、学び、実践したことで、変わったなあと思うところ、良かったなあと思う所を含めて、私が母に対して、「産んだ責任で殺してくれ。私の人生を終わらせてくれ」と思っていた事から、「生きていていいんだ」と思えるようになるまでをお話していきます。

 

1,自己紹介

まず、家族構成は、父、母、祖母、3つ下の双子の妹たち、妹の一人はお嫁に行きました、そして、飼い猫が3匹います。

猫がとても好きなので、猫好きな方がいらっしゃいましたら、是非語り合いたいなあと思います。

仕事は母が立ち上げた会社で、お餅や大福、シフォンケーキを作ったりし、お店に配達をしています。

 

2、ととのえ心理学と出会う前①

私がととのえ心理学と出会って、勉強し始めたのは今から4年前のことです。

それまでの私は、自分の本当の気持ちが分からない。

どんなふうに生きていきたいのか、決められない。

他人とのコミュニケーションはぐちゃぐちゃで、毎日毎日、生きているのが辛く、つまらなく、早く人生が終わらないかなと思っていました。

 

自分が嫌い。違う誰かになりたい。

もしも神様が願いを叶えてくれるのなら、今まで出会った人たちから、私の記憶を消して欲しい、と本気で思っていました。

少なくとも、良くはならなくても、これ以上悪くならなければマシだと思っていました。どういう事かと言いますと、例えば、こんなことです。

 

ある日取引先の方に「あなたの態度が悪い。ここにはもう来ないでください」と言われてしまったことがありました。

きっかけは、来店されるお客様用に、商品に使う梱包資材を必要以上にストックで欲しいと言うことでしたが、私が、それはそんなに必要ないはずと言うことを伝えた時の言い方が、相手の方は気に入らなかったようです。

数年の間に、同じようなトラブルを何回も起こしました。

 

社長である母は、私が起こしたことの不始末をつけるためにあちこち取引先に謝りに行ったりしました。

私は、私がやることなすこと、関わることはみんなを嫌な気持ちにさせるし、誰も幸せにならないと思い込むようになりました。

私が生まれてきたのは間違いであり、私がいない方がみんなが幸せになれる。

私は自殺しようと考えるようになりました。

どうやったら、死ぬことが出来るのか、死に場所を探して苗木城跡にも行ったことが有ります。

 

2,ととのえ心理学と出会う前②

私は今34歳ですが、こんなこともあり、10代20代の頃は「今日家を出たら、車がぶつかってこないかな。即死できたら良いのに」と心が荒みきったやるせない、虚しい気持ちで生きていました。

本当は、若さ溢れる、キラキラした、幸せに充ち満ちた生活を過ごしたかったですが、残念ながらそれは叶いませんでした。

それでも、このままではダメだ、自分は変わらなければと思い、本を読んだり、ネットで検索してみたり、運が良くなるようにと部屋を片付けて掃除してみたり、開運スポットに行ってみたりと、自分なりに頑張っていました。けれど、人とのコミュニケーションを良くしよう、仲良くしようと思っても、相手とは思ったように仲良くなれなかったり、仕事仲間と円滑に作業を進めようとしても、どこか溝を感じてしまったり。

 

家族からは、あなたの言い方がきつい。なんでそんな考え方しかできないの。マウントとってる。威張っている。家から出て行ってと言われてしまいました。

ここにいても良いんだ、と思える自分の居場所が失われていき、自分らしい生き方なんてものは、そもそも「私らしさ」すら分からないまま、生きる気力を失っていきました。

頑張っても頑張っても変わらない、良くならない現状に、落ち込み、自信をなくし、打ちひしがれていました。

 

3,きっかけ、ととのえ心理学との出会い

次に、ととのえ心理学との出会いについて。

もともとの一番最初のきっかけはフリーペーパーの「まいか」に載っていた整理整頓の相談会のお知らせでした。

部屋を片付けて、人生が上手くいくようになりたいと思うのと同時に、

自分が明日死んでも、家族の迷惑にならないよう、極力物を減らしておこうと、今で言う終活をしていました。

20代後半で、すでに終活を始めるという、今思うとかなりシュールだなあと思います。

当日、なみ先生は色々お話をしてくれましたが、その中で「あなたはお母さんに、お母さんの良いように扱われているね」と私に、言いました。

 

その時、自分の内側から何かが溢れ出てくるような感覚が有り、涙が出そうになりました。

でも、何故泣きたくなったのか、その時の私には分かりませんでした。

それから半年後、なみ先生からお茶に誘われました。

お話をして、性格診断のグラフもとってもらい、最初に言われたことは、「ひろちゃんは誰かを殺したい、と思ったことはある?」と言うことでした。私は言葉を失いました。

まだ2回しか会ったこともないし、会話もそこまで深く話していないのに、かなりストレートに言われたし、その時、自分で気付いていなかったけれど、隠していた気持ちをズバッと見透かされたからでした。

 

4,やってみたこと

心理学を勉強する以前は「お家では誰かがやらなきゃいけないのなら、私がやった方が家族みんな楽だよね」と思って、本当は私だってゆっくりしたいし、ダラダラしたいけれど、それを押さえ込んで、家族みんなのためと思い、買い物に行き、食事を作り、洗濯物を畳んで、お風呂を沸かしたり、仕事から帰ってクタクタになりながらも、それらをこなしていたのですが、やっぱりどこかで、何で自分ばっかり!とイライラしたり腹ただしい気持ちになり、それで怒って怒りを爆発させることもありました。

逆に、そう言った怒りたい気持ちさえ「みんな大変だから」と言い聞かせ、気持ちを抑え込んで、しかし押さえ込めば押さえ込むほど、怒りが悲しみや辛さに変わり、涙を流しながら夕飯を作ったこともありました。

 

会話をしている時も、言い方や伝え方も、「これやってよ!」「なんでそんな簡単なこともできないの?」「そんな当たり前のこと聞かないでよ」と言っていましたが、心理学を勉強してからは、「できれば、こういうふうにしてくれると嬉しい」と伝えてみたり、「これ代わりにやってくれるかな?」と、頼ったりしてみました。

どんな小さなことにも「ありがとう」を伝えるようにし、相手の気持ちを受け止めたり、相手の考えている事と、自分の考えている事の折り合いのつけどころを探したり出来るようになりました。

 

しかし、何故だが、それでも自分の心の中のコップが、なかなか満たされない気持ちも同時に抱えていました。

今回のカウンセラー試験の相談をしに行ったとき、その満たされない気持ちが、やっと分かりました。

相談をしに行った日、なみ先生に「うーん。何かね、ひろちゃんの話を聞いていてね、私、ひろちゃんとお話している感じがしないんだよね。あなたの隣にもう一人のあなたがいて、「ひろちゃんはこういうふうに考えて、こんなことを思っているんだよ」と説明している。私と話しているのは、ひろちゃんではなく、その隣の人。本心、本音を隠している」

と指摘されてしまいました。

 

その時私は、先生は一体何を言っているのだろう?と、頭の中は大パニックでした。

発表のための材料も、割と良い感じに集まっているし、あとはこれでうまく文章を作れば、まあまあの出来になるだろう、と結構自信まんまんで相談しに行ったのですが、それはそれは見るも無惨に玉砕し、振り出しに戻りました。

それどころか、自分なりにこれが本心で本音だと思っていたことが、実はそうではなかったが、大変ショックでした。

何となくですが、その理由が幼少期にあるのではないか?と感じ、以前受講したインナーチャイルドを、もう一度見直す事にしました。

そして、その本音を出せなかった理由が、幼少期の母との関わりと、深く関係していたことが分かりました。

 

5,母との関係とインナーチャイルド①

インナーチャイルドとは、幼い頃に理由不明で、未完了になって納得しがたい辛い感情に、答えが見つかっていないために、大人になっても辛い感情を慢性的に感じる癖を持ち、答えを探し続けているモヤモヤした状態を言います。

同じような感情を味わうと、自分の人生や人とのコミュニケーションに支障をきたしてしまいます。

私はこのインナーチャイルドを強く持っていたために、実践心理学でどんなに色々なことが良くなる変化をみせても、一番の根本が解決していなかったために、自分の心のコップが、なかなか満たされることがなかったのです。

インナーチャイルドセラピー講座の中に、「禁止令」という項目があります。

 

禁止令とは、やってはいけないこと、やることを禁止されたことを言い、13種類あります。

その中で私は、「存在するな」「成長するな」「他人と近付くな、他人を信じるな」の項目にインナーチャイルドを強く持っていることを知りました。

特に「存在するな」は私の人生に、今までも大きく影響を及ぼしてきました。

自分を認めて欲しいと思いながらも、私なんて生きていても意味がないと思い、自分が必要とされていないと思うと、消えてしまいたい気持ちになり、生きていたい、幸せになりたいと、全く思えなくなっていました。

自分の人生をどういうふうに生きたいのか考えられない、選べない。

大事な選択は自分の意志ではなく、親か占い師に助言してもらい、決める。

ちょっと何かにつまずけば、自分自身に対して「お前なんか生きていることが間違っている、だから上手くいかないし、良いことだって起きないんだ」と、責めるように言い聞かせていました。

 

なぜ、こんなふうに思うようになってしまったのか、答えは幼い頃の私と、母との関係にありました。

結論を先に言いますと、私はとにかく淋しかった。寂しさがつもり積もって、そしてそれが歪み、「私がこんなに淋しくて、辛くて、苦しいのは全部お母さんのせい、産んだ責任でその手で殺して死なせてほしい」と思うようになってしまったのです。

 

5,母との関係とインナーチャイルド②

今現在、私と母との関係は、まあまあ良好と言えると思います。しかし、幼少期はそうではありませんでした。

幼い頃、私は母がとても怖かったです。

 

ここで少し、母の結婚当時のお話をします。

昭和62年、母が22歳の時、父と結婚し、熊崎家に嫁いできました。しかし当時、熊崎さん家の家計は火の車。借金もたくさんあったそうです。当時、時代で言うと昭和の終わり頃。しかも、ど田舎の農家に嫁いできたお嫁さんが仕事に就くとしたら、当然旦那さんである父の仕事の手伝いか、あるいは何処か別の仕事先でパートさんを勤めるか、大体そんな感じでした。しかし母は、それを嫌がったそうです。農家に嫁いで来たら、当たり前のように農家のお嫁さんになるのは嫌だ。ただの歯車の一部にはなりたくない、と言っていたそうです。

 

すると父が、それなら自分で会社を作って、いろいろやってみたらどうか?と母に助言しました。そして、結婚して数年後、お家の借金返済も含めて、母の名義で会社を作りました。私が保育園の年長さんくらいの頃でした。

会社を立ち上げた当時は、ハウス栽培でシクラメンを作っていました。その後、大きな会社と契約を結び、シクラメン以外のお花や野菜の苗を育てて出荷する、というスタイルを作り上げていきました。

しかし、まわりの人たちからは「女のくせに」とか「旦那さんをさしおいて、出しゃばっている」など言われ、祖父や祖母からも「嫁のくせに」など言われ、非難されていたそうです。

しかし、負けず嫌いで、勝気で、粘り強い性格の母にしたら「絶対に負けてやるもんか。いつか見返してやるんだ」と、ますます仕事に打ち込み、奮闘していきました。大きな会社と契約した以上、ちゃんとした商品を納期までに作らなければならない、というプレッシャーもあったと思います。

しかしそれが結果として、しわ寄せが私や妹たちにきました。大好きなお母さんと一緒にいたい仲良くしたいと思っていましたが、平日も休日も関係なく忙しく、時々遊びに連れて行ってもらった記憶はありますが、普段の何気ない生活の中での、「家族の団欒」というのは少なかったです。

 

5,母との関係とインナーチャイルド③

そんな母を支えたい、助けたい、お手伝いをしたいと、子どもの頃の私は思いました。母に「何かお手伝いをすることは無いか」と聞きましたが、母は、「何もしなくていいから、妹たちを面倒見ながら、あっちでテレビを見ていなさい」と言われました。が、別の日には「いいわね、あなたたちはのんびりとテレビが見られて、お母さんは仕事がすごく大変なのに」と八つ当たりや嫌味を言われたりしました。

 

意味も分からなく怒られる日も有れば、逆にとても優しく機嫌がいい日もある。

毎日、母の機嫌とキツイ物言いに振り回され、私はすっかりと怯えてしまい、常に母のご機嫌を伺うようになっていました。

自分のやりたいこと、友達と遊びたい時も、習い事でやってみたいことがあっても、「いいよ。やってみなよ。頑張ってみなよ」と笑顔で答えてくれることは少なく、たいてい不機嫌そうに、「それは本当にやりたいことなの?きちんと最後まで出来るの?」と、最初から意欲をくじく言葉をかけられました。

 

わがままを言ってはいけない、物分りがよくなければいけない。怒られないように、八つ当たりされないように、良い子にし、顔色を伺って、言われたことを素直にこなす。

寂しいと思っていても、自分のやりたいことがあったとしても、その本当の気持ちを母に言うことはできませんでした。

いつからか、本心や本音を隠す癖がついてしまったのだと思います。

 

大人になり、客観的に私と母の関係を見つめ直したときに、歪みを感じました。

母のことはとても大切ですし、尊敬もしていますし、大好きです。しかし、それと同じくらいに母に対して怒りを感じ、恨み、復讐心があります。

母の気分や機嫌次第で、態度が変わる。喜ばれ、疎ましがられ、怒られる。振り回す、良いように扱われる。

ここで、この部分が、なみ先生に初めて会った時に言われた「あなたはお母さんに良いように扱われているね」という言葉に繋がりました。なるほど、これか!と、とても腑に落ちました。

そして次第に、私は何のために生まれたのか?と思うようになりました。

母は本当に、私がほしくて生んだのだろうか。

子供は宝、大切な存在と言うけれど、そうは感じられませんでした。使い勝手の良い手駒か、召使いがほしかったと言われれば、そっちの方が納得できるなあと思いました。

 

けれども、「いい大人」である自分は、いつまでも幼かった頃の出来事と、母に捕らわれていてはいられないし、何処かでケリをつけなければいけません。

あの時は、お母さんも大変だったんだ。お母さんだって、決して私のことが大事じゃなかった訳じゃないんだ。仕方がなかったんだ。

そもそも、お母さんに対して、怒っているとか、恨んでいるとか、そんなことを言ってはいけない、思ってはいけない。と自分に言い聞かせ、分かったふりをする。でも、本当の自分は置き去りのままでした。

 

5,母との関係とインナーチャイルド④

本当の自分は、淋しがり屋で、誰かに甘えたくて、認められたくて、必要とされたい。だから、そうであるために、強い人にならなければならなかったし、何でもそつなくこなせるようになったし、頼られる人にならなければならなかった。

誰かを信じて任せることなんてできなかったし、本当はやりたくないことも、自分がやるから、あなたはやらなくていいよ。休んでいてね。と、出来るふりをして強がって見栄をはっていました。

居場所をなくさないために、本音と本心を隠して、言わないで、相手の喜びそうな言葉を選んで、顔色を伺って、空気を読んで、頑張って頑張って頑張っていました。

今回、今日こうして発表するにあたり、再度私のインナーチャイルドと向き合い、解放することで、また1つインナーチャイルドを癒すことができたので、良かったと思いました。

 

6,今日までを振り返って

今日までを振り返り、私が本当に変われたなと思ったことは、インナーチャイルドを解放し、本音と本心を出せるようになりました。

母に対して、「産んだ責任で殺してほしい」と思っていた所から、母の気持ちに気付けたからこそ、母を許し、少しずつ自分を受け入れ、自分自身で自分を認め、なりたかった自分に近付くことができ、死ななくてもいい、生きていてもいいと思えるようになりました。

「車がぶつかって来て即死しないかな」と思ったり、死に場所を求めて苗木城跡まで行っていた私が、「明日が来るのが楽しみだ」と思えるようにまでなれたのは、なみ先生と出会い、ととのえ心理学と出会えて、勉強して、自分の心の内と向き合い、辛かった気持ちを解放することができたおかげだと思っています。

そしてこれからは、少しずつでも幸せな自分に邁進していけるように、自分の心のコップが満たせたら、誰かの心のコップを満たせる手助けが出来るような自分になれるようになりたいです。