2022年心理カウンセラー認定試験 受講者の発表です。
私は、「本当の自分」で生きると決めた話をします。
この発表は、最初の予定では、「ととのえ心理学を学んだおかげで、夫の親と別居できた。苦しかったのに20年間ずっと我慢して、ぐずぐずとできなかったことがようやくできた。おかげで毎日がすごく幸せになった」という話をするつもりでした。
内容は、20年前、夫の親と土地を買い、家を建てて同居したけれど、うまくいかなくなりました。私は姑から何をしても怒られて、しなくても怒られて、どうしていいかわからずに、ただ「お前の我慢が足りんのだ」といつも舅から怒鳴られていました。自分はなんてダメな人間なのだろう、と消えてしまいたい衝動にかられたこともあったし、家に帰るのが苦痛でした。
さんざん自分なりに本を読んだりセミナーに行ったりして、心理学やスピリチュアルを学んできたつもりだけれど、毎日がしんどい。別居したいとずっと思っているのに、どうしてもできない。楽になりたいのに、楽になることができない理由がいくつも出てきてしまって、動けません。
そんな時に、奈美先生の性格診断を受けて「ぜひ心理学講座を受けるといいよ」と誘ってもらいました。
実践心理学講座の体験を話す回で、怖い夫を相手に頑張って別居した話をされた方がいました。私よりずっと大変なのにやり遂げて、すごいと思いました。私もできるかもと勇気が出ました。知識を頭で理解しても、それを自分のこととして腑に落として実践することは難しいです。身近な仲間の体験談を聞かせてもらえたことで、やっと自分に当てはめて考えることができました。
また、奈美先生は、自分のことを惜しみなく私たちに話してくれます。愚痴ではなく、それをどうやって乗り越えるかまで伝えてくれるので「こんなすごいことがあっても人間って大丈夫なんだ」と驚きと勇気がもらえます。やってみても大丈夫かも?と背中を押される思いがします。
もしも心理学講座を受けていなかったら、本だけが増えて未だに「別居したいな、でもな…」と同じ暮らしを続けていたと思います。引越しできた今は毎日幸せで、子どもにも「この家に来てから楽しそうだね」と言ってもらえます。自分のために環境をととのえることができて、自信になりました。
と、こんな内容にするはずでした。
ところが、発表の相談で奈美先生と面談をすると、毎回私について思いがけない指摘を受けました。それは自分にとっては普通のこと過ぎて、言われても「私ってそうなの?」とよくわからないことが多かったです。でもそのおかげで、今回真剣に自分を理解しようと頑張ることになりました。
大きく3つあるので、順に説明します。
まず一つ目の指摘は「『認知の歪み』を読み返してみてね。」と言われました。
「認知の歪み」とは、物事に対する捉え方が過剰に悲観的に偏って考えてしまうことで、10パターンあります。
家に帰って認知行動療法の回のテキストを読み返して、よくよく考えたら思いがけずたくさん当てはまりました。思い込みがたくさんありました。
「認知の歪み10のパターン」のうち、4つは簡単に見つかりました。
「白黒思考」では、失敗してはいけない、間違ってはいけないと自分を追い込んでいました。
「拡大解釈、過小評価」では、人が同じことをしても気にならないのに、じぶんがするのはいけないと感じてしまいます。また人と同じ結果であっても、自分が出した結果についてだけこれではダメだ、と厳しく評価します。
「責任の取りすぎ」では、どんな状況であっても、お給料をもらって働いているのだから与えられた仕事を間違いなくできない自分が悪い。と自分を責めていました。
「べき思考」では、母親なんだからしっかりやって当然とか、人を嫌ってはいけない、人に迷惑をかけてはいけない、など「こうあるべき」が見つかりました。
また、見つけた時にびっくりしたのが「我慢は美徳」と「努力すれば報われる」という信念です。自分の長所は我慢強いことと頑張りがきくことだと思っていたけれど、間違った我慢と努力がさらに自分を苦しめていたと気づいて、衝撃を受けました。
二つ目は、一年以上前にカウンセリングを受けた時に指摘されたことで「不幸から0、マイナスから0にするだけの生き方で、そこから幸せ、プラスへ行こうとしない」というものがありました。
その時は、「自分にダメ出しばかりしていることがわかったから、これからは不足を埋めることばかり考えるのではなく、自分の良いところや楽しいことをもっと見つけていこう」と思いました。
今回は、どうしてそうなってしまうのかを考えました。
マイナスから0へ行く動機は、人から悪く言われないように、人に迷惑をかけないように、恥をかかないように、など他人の目を意識して問題回避することです。怖れがベースで、他者基準になっています。
それに対して0からプラスへ行く動機は、自分が楽しいとか、自分の幸せや快適、自分が心地よく感じる状態を目指します。自分が基準です。
基準を他人に置いたままプラスへ行こうとしていたから、うまく動けなかったのだとわかりました。
最後の指摘は、奈美先生に私が最初に性格診断を受けた時の印象が「自分の話なのに人ごとのように話す」と感じたそうです。それが今でも変わらないと言われました。それを聞いて、わからなくなりました。
自分では普通に話しているはずなのに、どこが人ごとなんだろう?何が違うのだろう?
でも、いつも人に対して取り繕っている感じは自分にもあって、目立たないように、波風を立てないように、表面だけ合わせて本心は見せないというつきあいかたをしていることが思い当たります。それが上手に世の中を生きていく方法だし、大人はそういうものだと思っていました。
「文子が話すのではなく、『文子‘』が出てきて話している」という例えを聞いて、イメージが湧きました。本当の私と保護者みたいな私がいて、本当の私は幼い感じがします。保護者の私は厳しくて、痛い目を見ないように、失敗しないように、常に注意を払っています。世間の目を意識して、私のことを評価します。リスクがありそうなことは止めさせます。また、私のできていないところを見つけてダメ出しをし、克服するよう求めます。すべて私を守るためです。幼い私は従います。
「ほらまた今、『文子‘』が喋ってるよ。本当の自分を出しなさい」と言われたときに、全くそんな意識はなく「え、自分が喋ってるはずだけど」と、本当に戸惑い、困りました。どうしたらいいのかわかりません。
まるで、着ぐるみだと思いました。そのままの自分を出して世の中に飛び込むとダメージを受けそうだから、自分そっくりの丈夫な着ぐるみを着ることにしたのでしょう。着たまま過ごしているうちにあまりにも馴染んでしまって、いざ本当の自分に戻ろうとしたら、その脱ぎ方がわからなくなってしまったような気持ちでした。探しているのに脱ぐためのファスナーが見つからなくて、どうしようと途方に暮れました。
奈美先生から教えてもらった自分についてたくさん考えて、じゃあどうしたらもっと幸せになれるのか?
幸せとは「自分らしく活き活きと生きる」と講座で教わりました。
自分らしくって、どんなことなのか私にはぼんやりしていたので、これも考えました。「自分らしい」がつかめないなら、反対の「自分らしくない」ってなんだろう?「自分ではない」が近い。これは自分の思い、気持ち、考えを認めない、抑える、そのままを表さない、違うことをする、ということ。自分で否定、禁止、制限をかけている状態。中身と外身が合っていなくて、無理をしている感じがします。それなら「自分らしく生きる」は、ひっくり返して自分の思い、気持ち、考えに素直になって表現すること、そのままを認めることなのだとしっくりきました。
年末の面談の時に、奈美先生から二つ課題をもらいました。
「自分を出したら、どうなるのか?」と「自分を出したら、嫌われることもある。それでもやるのか?」です。
「自分を出したら、どうなるのか?」は、人から嫌われるかもしれない。あきれられるかもしれない。がっかりされるかもしれない。私から離れて行ってしまうかもしれない。でも、今まで縁のなかった人と近づくかもしれない、と思いました。
「自分を出したら、嫌われることもある。それでもやるのか?」は、すごく怖い。今まで通りにしていれば、今と変わらない生活ができる。今のままでも社会生活を送れている。でも、この先ずっと周りに流されて自分がないまま生きたら、最期にきっと後悔する。だから「やる」と決めました。これはものすごく怖くて、理屈ではどうしたらいいのかはっきりしているのに、戻りたい、少しの不満なら今まで通り飲み込んでやっていける、と踏み出すのにぐずぐずと3日間悩みました。慣れ親しんだやり方を捨てるのは、保護者の私と別れることで、それはなんだか、悲しくて寂しいことでした。悩みに悩んだ挙句、やっと諦めがついた、という心境でした。
長い間、危険な目に遭わないように人目から自分を隠してきました。隠しすぎて、自分でも自分の本当の気持ちがわからなくなってしまいました。でも、もう隠すのをやめよう、と思いました。
自分が傷つかないように、自分を守るために、他人の目からどう映るかを気にして自分を二の次にしてきたけれど、自分のことも他人と同じように大事にすればいい。自分に我慢させて飲み込ませてきたことがたくさんあったけれど、そのための他人との交渉、すりあわせも、面倒がらずに自分のために、がんばる。自分はできない、無力だと最初からあきらめてやらなかったり、周りに流されてしまったことも、まずやってみる。自分を大事にするって、言葉は優しいけれど、実行するのは勇気がいるし、手間がかかります。
今まで、自分なら雑に扱ってもいい、嫌がることをさせてもいい、我慢させればいい、自分はこの程度で十分だと適当な物を与える、というひどい扱いをしてきたことに気づきました。ずっとこれが普通だと疑うこともありませんでした。
講座に誘ってもらうまで、心理学やスピリチュアルや自己啓発などの本に救いを求めて学んでいたのに状況が大きく変わることがなかったのは、自分のことをきちんとわかっていなかったからだとわかりました。自分にとっての普通や当たり前が、本当に普通で当たり前なのか?ということは、自分では気づけませんでした。言葉だけが上滑りして、都合良く簡単にできることだけを取り入れて、大変そうなことはやらずに流していました。自分の行動に繋げることがほとんどなかったので、現実も変わりません。
今、引越しについて改めて思い返してみると、引越しにはすごい労力が必要だから現状維持のほうが楽だと逃げていました。私が20年間やっていたことは「辛くない」「まだ大丈夫」「周りのみんなも見せていないだけで同じ。みんなだって苦労しているはず」「前より楽になったから、今はそれに比べたら平気」などと自分の状態の認識を曲げて、毎日をごまかし、やりすごすことでした。本当は苦しいけれど、気づかないように見ないようにして押し殺していましたが、そのことに自分でも気づいていませんでした。それが、自分を深掘りしたことでやっと気づけました。最初の予定の発表では、周りの人たちの勇気づけのおかげで行動することができた、という内容で終わってしまうところでした。
今回、初めて自分についてここまでしっかり向き合ってきましたが「やっぱり発表を辞めます」と奈美先生に伝えたこともあったし、年末年始は、資料作りで頭がいっぱいで「なんで私、やってみるって言っちゃったかなあ?」と思ったこともあったし、隠している自分を出して生きる、と決めるまでの3日間は怖くて胸がキューっとなりました。それでも、自分ではわからなかった自分を奈美先生のアドバイスを通して発見していく過程は、大変だけどそれ以上に驚きと楽しさがあって、面談が終わると、毎回「良い時間をすごせたな」と思いました。
さて、決心してから3か月、自分が、今何を感じているのか、どう思っているのかということに注意深く意識を向けて「自分がふとやりたいと思ったことはやる」「自分の思いを表すときに、相手に合わせて嘘をつくのをやめる」といったことを心掛けてきました。
ふとやりたいと思ったことというのは、例えば、ずっと気になっていたけれどやっていなかったふるさと納税を、もうやらなくてもいいじゃないという気持ちと葛藤しながらも、調べながらなんとか年末ぎりぎりに間に合わせてやれたこと。他には、皆さん源氏パイというお菓子をご存じですか?私はあれが大好きなんですが、自分が子どものころに母に欲しいといっても「今度ね」とはぐらかされて買ってもらえなかったんです。娘と息子は特別好きというわけではないので、もったいないから大人になってからも自分のためだけに買うことはなかったのですが、大袋で買って思う存分食べるようになったら、すごく満足しました。
こういったことを積み重ねてきたら、地に足がついた感じがします。「他人からどう見えるか」から「自分がどうしたいか」を見るように変えたら、他人に逃げていたエネルギーが自分に戻ってきたような感覚です。ちゃんと自分がここにいると感じられます。
今、私は恐る恐るですが、心理学のおかげで大きな一歩が踏み出せたという満足感があります。「人生は、楽しむもの」という素敵な言葉を奈美先生から教わりました。この先どう変わるのか、その変化を不安ではなく楽しみと捉えて、充実した人生を手に入れることが目標です。
今回、この発表に取り組んで、本当に良かったです。