2022年心理カウンセラー認定試験 受講者の発表です。
Rさん
「イネイブラーからの脱却〜自分軸の人生へ〜」
今日は私がイネイブラーという他人軸の人生からどのように自分軸の人生を手に入れたかというお話をします。
イネイブラーについては後程ご説明いたします。
私は30歳、現在6歳と7歳の子供を持つシングルマザーです。
私が心理学を始めたきっかけは誰かの役に立ちたいと思ったからです。現在保険の仕事をしているのですが、多くの同僚が心を病んだりコミュニケーション不足で上司と揉めたり、心の問題で仕事を辞めてしまう人が多かったため、何かお役に立てないかと思い始めました。しかしいざ心理学の勉強を始めてみると自分がいかに歪んでいて、心の問題から多くの間違ったコミュニケーションを行っているかということに気づきました。
これから私がイネイブラーになった過程をお話しするためにまずは幼少期のお話をします。
私は祖父母と父、母、兄の6人家族の中で育ちました。
祖父母は母方の祖父母になります。
幼いころの私はタクシーの運転手さんですら怖くて泣くくらいの人見知り。一方で、鉄橋の手すりの上を歩いておばあちゃんをひやひやさせるくらいのおてんば娘でした。
祖父は戦争から帰ってきてから心を病み、まともに話ができる状態ではありませでした。そんな祖父が怖くてまともに目を合わせたことがありませんでした。そんな祖父との思い出は、たまにたばこのお釣りをお小遣いとしてくれたことと、最後まで私の名前をリコと呼んでいたことくらいです。
祖母は仕事でいない両親の代わりにご飯を作ってくれたり、幼い私と一緒に散歩したりと母の代わりをしてくれていました。大きくなってからもいつも私の心配をしてくれていて、大好きでした。
しかし、母と仲が悪いわけではなかったのですが母のことを悪く言ったり、女の子なのだからこうでないといけないと言ったりと否定されることが多かったです。
そして長男である兄を溺愛しており、私より兄を褒めることに私は劣等感や嫉妬をしていました。
祖母が気にするのはいつも私よりも兄でした。私は五平餅が嫌いだったのですが、兄が好きだからと毎月のように食事に五平餅が出ていました。そして私が好きでも兄が嫌いなものはほとんど出てくることはありませんでした。「私が好きなものも出して」と言えばよかったのでしょうが、言わずに我慢することで、兄はわがままで自分は我慢のできるいい子という「いい子作戦」をしていたのだと思います
母は名古屋で仕事をしていたため朝早くから出ていき、夜も遅くに帰ってきていました。幼い私は母が帰ってくるのが待ち遠しく、祖母と一緒に途中まで散歩がてら迎えに行ったことを覚えています。さらに朝は新聞配りをしていたので、私は起きると母がおらず寂しくて、時には出かけようとしている母をはだしで追いかけていました。
そんな母は共感力に欠ける人で、基本的に褒められたことがありません。褒めないどころか、隣の部屋から「できもしんのに生徒会なんかやるでやわ」「あの子こんなことをしたんやに?ほんと困るわ!」と私の悪口が聞こえきて悲しかったことを覚えています。悪口は聞こえるのに直接叱られることはなく、鉢植えを壊してしまったのを隠していた時、知らぬ間に片付けられており怒られませんでした。私から謝ればよかったのかもしれませんが、申し訳ない気持ちから謝れずにいました。そして、その時私は陰で何か言われているのではないか、と不安で仕方なかったことを覚えています。基本的に直接怒られることがなったので謝る機会すら与えられず、コミュニケーションをとることができないことが辛く悲しかったです。
そんな母に私はとにかく認めてもらい、褒めてほしかったです。そして今思うと母も祖母に褒めてほしかったし、認めてほしかったのではないかと思います。祖母から認めてもらい褒めてもらうことができなかった母だからこそ、母自身、認めて褒める方法が分からなかったのでは、と今は思っています。
そんな母との関係に加え、父は若いころ、お酒に酔うと子供たちを玄関まで引きずりだし「出ていけ」とくだをまいていました。時には暴れることもありました。基本的に父は無関心で相談に乗ったり熱心に子育てに関わったりするタイプではありませんでした。しかし、酔った時に調子よく「愛している」「かわいいな」と愛情表現してくれる父のことが私は好きでした。
そんな父は私が高校生の頃に仕事を辞めてしまいました。そんな父に耐えかねた母は、一度「いつ仕事を始めるのか」と問いただしたことがありました。すると父は家出をしたのです。
その時母は「お父さんに言い過ぎてしまった。自分のせいでお父さんが死んでしまうかもしれない」と泣いていました。その姿に私は、母は父のことが好きなんだと思いました。しかしこれは母がイネイブラーであったためであり、歪んだ愛情表現だったと知るのは20年も経ってからです。
そんな両親に育てられた兄もまたコミュニケーションが苦手で、学生時代はいじめられることもありました。そのためか、家では自分の思い通りにならないと怒ることが多く、兄に逆らうことができませんでした。そんな兄を中心として回る家にいるのが嫌で、早く大人になりたいと思っていました。
祖父は精神疾患、祖母は兄を溺愛し、母は隠れて悪口を言う、そして実際の行動と言葉が伴わない父、私は完全に機能不全家族のなかで育ちました。
皆さんは「機能不全家族」という言葉をご存じでしょうか?
機能不全家族とは、問題を抱えている本人だけが問題の原因と考えるのではなく、家族全体が影響しあって問題が生まれ、うまく機能していない家族の状態のことです。
つまり私が人の顔色をうかがう子供になってしまったことや、イネイブラーになったという問題は、私がいい子でなかったからということではなく、祖父、祖母、父、母、兄全員の問題が家族の中で共鳴しあって、さらに問題を引き起こしたことが原因だったのです。
そんな不健全な環境の中で育った私は、常に周りの顔色をうかがいどうしたら愛されるか、喜んでもらえるか、そんなことを考える子供になっていきました。
成長するにしたがって、家族に対する期待が持てなくなり、次に認めてもらいたいと思う先が変わりました。それが学校の先生でした。
学校の先生は褒めてくれました。大人の顔色をうかがうのが身についている私からすると、先生を喜ばせるのは簡単でした。その結果、学級委員や生徒会などリーダーとしての行動を期待されるようになりました。私はそれが嬉しかったです。それは母に共感してもらうことや認められること、もっとできると期待されることがなく寂しく思っていたからです。だから、私はその期待に応えたいと強く思うようになりました。その結果他人軸を助長しました。それは先生のいうことが正解で自分の正解が見えなくなっていったからです。
しかし、そのおかげで得たものもありました。それは自信とリーダーとして人前に立つことになれるということでした。これは大人になった今、大きな財産だと思います。
一方でその期待に応えることでしか自分の価値を見出せず、間違った自己肯定感から常に大きな不安を抱えていました。うまく出来なかったら期待されなくなってしまう、そんな自分には価値がない。そんな気持ちでした。
しかし、学校の先生とずっと一緒にいることはできません。どこかで私の理想とする家族像への執着が方向を変えます。そのため、今度は友人を家族に置き換え、執着するようになりました。家族のような存在だから、その子の為になんでもしたい。完全に嫌わらないようにいい人作戦をしていました。ですが、近づきすぎると疲弊し距離をおく。今思うと、とても身勝手だったと思います。ですがその時のわたしはいい人作戦をすること、つまり他人軸で過ごすことが正解であり、愛される方法だと思い込んでいました。
それでも友達には友達の家族がいて、私が求めるような関係にはなれませんでした。
そこで行き着いたのが恋人でした。
結果恋人への執着が始まります。恋人との関係でも嫌われないように自分の意見は言わず、 プライドを傷つけないように馬鹿なふりをし、常に相手にあわせてきました。好かれることが最優先で、また自分の気持ちややりたいことに蓋をしていきました。
その結果行きついた先が夫との生活でした。
夫と結婚した理由は言いたいことが言える、自分らしくいられると思うえる人だと思ったからです。しかしそれは大間違いで「言える」のではなく、「言わざるを得ない」くらいヤバイ人だったからでした。
夫はギャンブル、浮気、ニート、無関心、コミュニケーション障害、ゲーム依存症などなど心理学で学ぶ問題の多くを抱えた人でした。
そんな彼に対して私はずっと期待していました。いつか理想の家族になっていけるだろうと。そんなわけないだろ!と多くの人に言われました。でも一緒にいるときは本当になれると思っていたのです。それは、私が機能不全家族の中で育ったイネイブラーであったからです。
イネイブラーとは一言でいうと、依存症の人の近くにいて後始末する人のことです。
イネイブラーと依存症の人とは共依存の関係にあり、さらにたちが悪いのは依存症者はイネイブラーが後始末しなくなると他の後始末をしてくれる人を見つけるので、イネイブラーは見捨てられないか不安になります。機能不全家族で育った私、は見捨てられる不安にも敏感に反応してしますので、まさに最悪の関係でした。
とにかく夫は、私に調子がいいことを言い続けました。「愛してる」「俺が守ってやる」「大好き」「家族が大切だ」その言葉に私は自分の理想像を重ね信じていました。
なぜそんな言葉が響いたのか。それは父の存在でした。父も同じように「愛してる」「大好きだ」と言葉をくれて、そんな父が好きでした。その気持ちが実際の行動と伴っていなくても、嬉しかったのだと思います。だから、そんな問題だらけの夫でも私には必要でした。まさに共依存の関係です。
結果、私の中のイネイブラーが成長していきました。
夫はパチンコ依存症でした。定職にも就かずお金がない中でも気が付けばパチンコに行っていました。何回もやめてほしいと伝えましたが、そのたびに不機嫌になり話にならず、それに耐えきれずお金を渡す。イネイブラーの典型的なパターンです。何度これが最後だと言ったかわかりません。さらにゲーム依存症でもあった彼は、常に何かしらのゲームをしており、家族といても常にゲーム優先でした。それだけゲームにはまっていた彼はもちろん課金もします。時には1か月に4,5万円もケータイゲームに課金するときもありました。もう課金するならケータイを持たせない、と言ったこともありました。しかしケータイがないなら子供の迎えはいけないし、仕事も探せないという言葉に屈し、結果支払ってしまう見事なイネイブラーっぷり。
さらに彼はコミュニケーションがうまく取れず、いつも仕事が続きませんでした。たいてい何かしら揉めて辞めてきてしまうため、その生活はとてもしんどかったです。イネイブラーの私にはどうすることもできませんでした。
もちろん離婚するとこも考えました。しかし子供たちもこともあるし…となかなかふみきれませんでした。ですが、心理学を勉強して気づいたのは子供たちのためでなく、私自身が「イネイブラーでいることが自分の価値である」と勘違いしていたことに気づきました。
その価値というは「相手を利用して自分に価値があるように見せかける」ことでした。自分の劣等感を満たすために、相手のだめなところを助けることでマウントをとっていました。
しかしこのままではいけないと、その状況から変わろうとした結果、変化を察知した夫は家族を捨てて失踪しました。どこに行ったかもわからずいつ離婚の手続きができるかもわからない状況が続き、とにかくしんどい時期を過ごしました。しかし一方で、失踪していなくなってくれたことにほっとした自分もいました。それは、自分から別れを切り出す勇気がなかったからです。今になってみるといなくなってくれたことに感謝しています。
それから正式に離婚することができ、3年が経ちました。
今でも他人軸が抜けきらず、悩むときがあります。しかし心理学を学んだことで、自分に目を向けられるようになり、見方が変わりました。
私は今まで「褒めてくれなかった母のせい、仕事をしない夫のせい、わかってくれない友人のせい」といつも誰かのせいにしてきました。しかし嫌われることが怖く、いい人作戦をする私はその感情について自分の気持ちをすり替え、我慢できる自分はえらい、と歪んだ褒め方をしてきました。自分の気持ちを受け止め、伝えるというコミュニケーションを放棄し、他人軸で生きてきた私はその感情を出す勇気がなく、相手に対して感じる感情は蓋をしなければいけないと思っていました。
しかし自分と向き合うことで何に腹が立ち、何をすることが嬉しいのか、どんな気持ちを抱き、それはなぜなのか、少しずつですが、自分の本当の気持ちを理解し受け止めることができるようになってきました。
そして気づいたのは、何よりも「自分は褒めてほしいのだ」ということでした。
しかしそれは他の人から褒めてもらうということでなく「自分自身が認めて褒める」ということでした。
今まで誰かに認められることが私のすべてであり、価値だと思っていたのですが、どれだけ称賛されても満たされませんでした。
それは一番褒めて認めてあげられるはずの自分が、常に自分を否定し受け入れてこなかったからです。
どんなに人から褒められたとしても、そこには大きな不安と期待に応えられなかったら、という恐怖が付きまとっていました。相手にとって何が正解でどうしてほしいのか、それだけが答えだった私にとって、自分自身を褒めることはとても難しいことでした。
しかし心理学を学び、心を知ることで、ここまで頑張ってきた私はえらい!よく頑張った!どんな選択でも自分の最善だったのだからいいじゃないか。今はそうやって認めて許すことができるようになりました。
自分の気持ちにきちんと向き合い、ほしい言葉を自分であげられる。そんな人になっていきたいと思っています。それこそが自分軸で生きることだと思います。
心理学を通じて自分と向き合えたことが、私にとって大きな財産です。
知るということがいかに人生において大切か。
まず自分を知り、大切にすることが周りの環境や人を変えていく。
そのことを忘れず、困っている人を楽にしてあげられる人になっていきたいと思います。